哭声 コクソン【感想・レビュー】「疑うこと」が、そんなに悪いか。

哭声/コクソン
(2017年 韓国映画)
84/100点
<最後まで、ネタバレ全開です。>
「禍々しい」を描かせたら、もはや韓国映画の右に出る者はないと思います。
この黒々とした空気感。顔を背けたくなるほど、おぞましい画。これに比べたら、ハリウッドホラーの画作りも、まだまだシャレオツにさえ見えるくらいです。
だけど、直接的な暴力描写は少ないです。それでも、画面を見るのが怖いのだから、演出の巧さたるや。
映画として、大傑作なのだと思います。
本作と「キリスト教」との絡みを知れば知るほど、巧妙な設定にわくわくします。

とはいえ。
展開が…、あまりにも酷。
そもそも、親子関係の話に滅法弱いものだから、本作の顛末がつらい。幼い子供が、ぎゃーーーーーっつって苦しんでる描写が延々続く場面を見て、怖い…よりも、心が不安でいっぱいになったのでした。
しかも…、救われないってのはどういうことよ!!
もちろん、映画はハッピーエンドであるべきなんて思っちゃいませんけど、本作の監督ナ・ホンジンの他の作品『チェイサー』でも、同じような「救われない展開」に唖然とした経験がありますので、この監督、とことんだなーと思って。
しかも、シリアスに見えて、序盤は結構「笑える」感じに作ってあるのです。ちょっと『殺人の追憶』を意識しているような作り。
主人公の男:ジョングは、どこか「上島竜兵」を思わせる、のどかな風貌だし、家族描写も微笑ましかったりするものだから、後半の地獄絵図との落差はとてつもなく激しいのです。
で。
本作で勃発する事件は凄惨です。人が突然正気を失い、身内に刃を向けて襲いかかります。その者は、ほぼ「ゾンビ」のように、見境がありません。そして、連続して事件は発生し、ついに、主人公:ジョングの娘までも、様子がおかしくなっていくのです。
果たして、なぜこのようなことが起きるのか。
誰かの仕業なのか。
以下、不可思議な「3人」がキーポイントです。
・われらが國村隼演じる、山に住む日本人。

ふんどしいっちょで、山を駆け回り、鹿の生肉を食らうと噂されます。怪しい祈祷も行うため、ジョングは、村に巻き起こる怪事件は彼の仕業ではないかと疑いをかけますが…。
國村隼のただならぬ気配はさすが。その怪しさたるや、旧石器時代でも弥生時代でも平気で越えそうです。
韓国にて、外国人として初めて「男優助演賞」を獲得。
・ガラの悪い祈祷師・イルグァン

正義側にはどうしても見えない。態度も口も悪い男。しかし、高名な祈祷師です。
悪霊に憑りつかれたジョングの娘に、派手でやかましい悪魔祓いを行いますが…。
・霊のような女・ムミョン

中盤でジョングに助言を与えたかと思いきや、終盤では「伽椰子」並みの不穏な空気を纏い、日本人や祈祷師、ジョングの前に姿を現します。
自分は味方なのだと、ジョングに説明するけれど…。
この内の誰がジョングを助ける味方なのか。
陥れようとしている悪魔なのか。
どいつもこいつも信じられそうで、信じられない。そこかしこに、伏線を張っていたり、ミスリードさせようとしていたり…描写が複雑です。もちろん、根幹に「キリスト教」が関わっているので、その点も考慮しながら観ないといけません。
「悪魔」の物語って、本来は「欧米」の専売特許だと思っていましたが、韓国は仏教よりもキリスト教信者の方が多いので、こんなにもしっかりと描けるんでしょうね。
で。
結論から言うと、まず安パイなのは、ムミョンです。彼女はおそらく村の守り神。初登場時、彼女は「小石を投げる」不可解な行動をしていますが、「罪のない者だけが石を投げなさい」という聖書の逸話に沿うと、彼女は「罪のない者」であると捉えられます。
…ていうか、ムミョンを疑い、言う通りにしなかったことで、終盤でジョングがえらい目に遭いますから、やはり彼女が「味方の側」確定で間違いないのでしょう。
この物語はつまり、「疑心」を描いた映画です。
聖書の描写に似た、「鶏が3回鳴くまで待て」と言うムミョンの指示を、ついに最後まで信じられなかったジョング。「ああ、なぜ人は疑うのか」 あの時、ムミョンを信じていたら。悪魔のささやきに耳を貸さなければ。この事態は、ジョングの愚かな疑心が招いて
…って信じられるわけないでしょうが!
無茶ですよ。素人に見分けが付くもんかい。最後のジョングの選択は仕方ないですよ。はっきり言って、ムミョンの説明不足と、彼女の無駄な根暗モードに敗因があるんですよ。
もっと元気良く、「よっ! あたいに任せなー!」っつって、ジョングを安心させなきゃダメでしょうが! 誰があんたみたいな青白い子を信じるもんかい。「こんな時間にどこに行くんだい…」なんて、怖がらせてる場合じゃないんだってば! 大して証拠も示さず私を信じて…だと…?
ホテルに入っておきながら潔白を主張する某女性議員かよ!
とはいえ。
ここが本作のニクらしい所ですが、他の二人にしても、「悪魔」だと断言できない描写をするものだから、私も訳が分からなくなりました。
私は途中で、「ははーーん、國村隼は味方だな」と、まんまと思ったものです。
鶏を買い出ししている姿は穏やかな僧侶のようだし、滝に打たれて修行している姿は、荘厳な呪術師そのものでした。
ガラの悪い祈祷師も同じく。
ジョングに何度も電話をかけている姿は、普通の人間が、何とか彼を救おうとしている姿に見えます。
だから、最後にジョングが彼らを信じたのも無理はない。ジョングの立場になって考えると、彼の苦しみが本当に気の毒です。
「何を信じていいのか分からない苦しみ」
「信じる対象が定まらない不安」
娘を助けたい一心だからこそ、ジョングが「頭を掻きむしりたくなるほどの焦燥感」に駆られたことは、よく分かります。彼が暴走し、噂に流され、人が変わったように怪しい日本人を追い立てるのは、無理もないのです。
なのに。
ムミョンは、まんまと悪魔の釣り針の罠にかかり、「疑心を持ったこと」が、「ジョングの罪」だと断言します。
…「疑うこと」が、そんなに罪なんですか。そんなのって、あまりにも宮迫に都合が良すぎるでしょうが!
さらに。
死を遂げたはずの日本人は、最後に復活します。しかも手の平には聖痕が表れています。これは、つまり、キリストの描写。
実は彼は、「神の側」なのか? 一体…?
追求する助祭司の男に向かって、「お前は、私を悪魔だと思っているじゃないか」と彼は言います。すると、彼の姿はみるみる悪魔の姿態に変わっていくのです。
「疑心」が、「事実」さえゆがめる「罪」だということを象徴するシーンです。
この日本人の正体は、本当は果たして、どうなのでしょう。
ついでに言うと、宮迫の疑惑の色合いも、人によって都合の良い色に変わるということでしょうか。本人自身が、ダークグレーとか言ってますけど。
とはいっても、全て結局は、「幻覚キノコ」のせいだった、というオチだと考える事も出来ます。
終盤近くで、ジョングが相談に行く教会神父はこともなげに、「医者に任せりゃいいでないの」とかわします。
軽すぎだろ…と思うけれど、それが真実なのかもしれません。やはり余計な「疑心」が、事態を混乱させているのだと。

とにかく。
あらゆる読み方が出来る作品です。深く考えれば考えるほど、迷宮に沈み込みます。
本作は、意図してそうなるように作られているそうなので、考えるだけ無駄かもしれません。
というわけで。
「疑うこと」がそんなに罪ならば、週刊誌の読者もワイドショーの視聴者も、みんな罪深き仔羊だってことなんですかね??
そう考えると、本作は、「疑心」が蔓延している昨今にふさわしい映画とも言えます。
個人的には、疑いを持って他人を非難する、「自分自身をまず疑う」ことが、大事なような気もするのですが。
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